今日は3月11日。
8年前の今日、東日本大震災が発生しました。
当時勤めていた職場の得意先に出張中で、ビルの3Fにいたので慌てて外に出てきたのを今でも鮮明に記憶しています。
朝出勤する時に車を運転しながらラジオを聴いていたのですが、その中で宮城県の気仙沼で震災の記憶の風化を防ぎ、後世に伝える仕事をしている方のインタビューを何気なく聞いていてハッとさせられたことがありました。
「大きな防潮堤の存在が安心感に繋がり、安心感は危機感の喪失に繋がってしまう。」
一言でいえばそんな内容でした。
震災後気仙沼では防潮堤については相当議論があったらしいです。
当初海抜6.2メートルの防潮堤を作る、という計画を住民の方々の
「海が全く見えなくなる」
「コンクリートの壁に囲まれて生活するのは嫌だ」
という意見から海抜4.1メートルまで下げる事で基本合意しました。
4.1メートルの上にもし実際に津波等が発生したら高さ1メートルのフラップゲートが立ち上がり、海抜5.1メートルになる。
そして陸地側からは区画整理の関係で盛り土をする事で防潮堤の一番上が1.08メートルとなり子供でも海が観られる、という案で落ち着いたそうです。
この1.08メートルというのは
「海沿いを歩いていて普通に海が観られる高さ。」
という事で施工主の宮城県と地域住民が何度も話し合いを重ねて出した結論との事。
ところがなぜかこの工事が22センチ高い4.32メートルの高さで進んでいた、という事。
この事自体は僕自身も以前目にしたことがありました。
今回のラジオではこのこと自体に特に触れていた訳ではありませんが、このインタビューを受けていた方がおっしゃっていたのが上で書いた言葉です。
防潮堤というのは所詮モノである。
モノがある事で安心感は大きくなるしそこに頼れる。
但しその安心感が危機感というものを喪失させてしまう。
その事が怖い。
土地も海沿いぎりぎりまで何かの公共施設を建てたいという意見も出ている。
その土地には当然に地権者がおり、その方々は土地が自分の資産ですのでその土地に対して経済的価値、利益をもたらしたい。
その気持ちもわかる。
ただ震災直後のあの状態の時は皆がどう思っていたか。
その考え方の変化こそが記憶の風化、危機感の喪失なのでは、とおっしゃってました。
(ラジオ聴いてそれを一言一句記憶しているわけではないので正確かどうかは自信がありませんが。)
防潮堤は所詮モノ。
モノと引き換えにモノより大事な「防災意識」を失ってしまう事の怖さ、という事をおっしゃっているんだなあ、という事がその方のインタビューから伝わってきました。
防災意識と経済活動を一緒にすることにお叱りをうけるかもしれませんが、僕自身、株式のトレードをしていて毎日株価チャートと向き合っていると
「うわー、このチャート、めちゃくちゃいいチャートだなあ。」
と感じるチャートに出会う事があります。
そうするとつい興奮したり、「このチャートでいくら儲けてやろう。」と妄想して自分の普段の取引以上の資金を投入してしまったり、損失許容額を多めにとってしまったりしようとします。
そういう時に限って上手く行きません。
「よし、(自分の想定の方向に株価が)行った。」
と思ったら次の日に株価が逆方向にいってしまったりします。
株価というのは人の意識の集合体です。
「この銘柄、上昇するぞ、買え」
「いや、ここから下降するぞ、売れ」
という刻一刻と変わる状況の中で株価が乱高下する時があります。
そういった状況に惑わされず、自分のルールをしっかり遵守し徹底することしか個人で株をやっている、いわゆる個人投資家、個人トレーダーは株でかてないんだろうなあ、という事をそういう局面に出くわすたびに痛感させられます。
だからこそどんなに良い株価チャートに出会っても損失許容額をしっかり決め、その許容額に達してしまったら速やかに撤退する事。
そうすることで自分自身の資産の大幅な目減りを防ぎ、また次のチャンスを狙うだけの資金を維持し続ける事。
こういう意識というのは防災意識と全く同じだと思います。
ちょっと上手く行くと調子に乗る、自信過剰になる。
そういう時は人は自信や安心感に満ち溢れ、危機感を忘れる、足元を見なくなる。
そういう状態というのは知らず知らずのうちに自分の足元に自分自身で落とし穴を掘っている状態です。
モノに頼り切ってしまうとそういう危機意識が無くなってしまう。
その危機感の喪失こそが次の危機への第一歩である。
防災意識はもちろんの事、普段の仕事ぶりや人間関係等、自分は大丈夫なのか。
ちゃんとふるまっているか。
色んな事を当たり前と思っていないか。
知らず知らずのうちに自分で勝手に自分に対して落とし穴を掘る行為を行っていないか。
どこかで傲慢に、他人に対して上から目線になっていないか。
そんなことを自分自身に思い出させてくれたひと時でした。